たまたま似たようなテーマの本に巡り会って…。私たちが気軽に使う〝多様性〟について考えさせられた。
まず前回のブログで書いた〝エコーチェンバー/フィルターバブル〟。これを教えてくれた書籍の中で、
「多様性豊かなチームであるにもかかわらず、支配的なリーダが登場すると、チーム全体が支配的なリーダに意見を合わせ始める傾向がある」
と、恐ろしくも同意できることが書かれている。知らないうちに言いたいことが言えない雰囲気が蔓延する組織って本当に危険! つい、昨今の防衛省の不祥事に重ねてしまった。
自衛官ら218人を処分 海幕長交代へ 特定秘密めぐる違反などで | NHK | 防衛省・自衛隊
防衛省 違反や不正218人処分 組織立て直せるか問われることに | NHK | 防衛省
一人ひとりは優秀なはずなのに、なぜこのような不祥事が繰り返されるのか? まさに「人材の偏りが失敗を助長している」「画一的な組織では盲点を見抜けない」の典型的な実例かもしれない。
政府が掲げる多様性、まず足元からみ見直すべきでは‼️
この小説では教育心理学における心理的行動として、教師の期待によって学習者の成績が向上するという「教師期待効果」に言及。
期待される生徒はいいが、期待されない生徒は置いてきぼり。「相手によって態度を変える」「怒鳴って怖がらせる以外に指導方法を持たないコーチ」など人間の持つ弱さが、心理的なバイアス(偏見、先入観)を生んでいるよう。
「一番の敵は先入観」「物事を決めつけるのは怖い」ということは頭ではわかってはいるものの、ついつい偏見や先入観が多様性を阻害しているケースは、実は身近に存在している。
一方、多様性を理解するためには〝マイノリティとは…? を考えることは避けては通れない。
この本では、〝マイノリティとか少数派といわれるもの(LGBTとか障害者とか難民とか…)は、いわば「ラベル」を貼られた存在〟だと言っている。とすると「〝普通〟とは…、ラベルを貼られていない/そんなこと考える必要のない、その他大勢」ということになるのか?
では、「ラベルを貼られた存在」が「普通」になる」には?
- 無徴(こんな言葉はじめて知った)になる…否定する、隠す
- ラベルの価値を転倒し、ラベルに誇りとプライドを抱き、ラベルとともに生きる
との事。どちらもとても辛く困難で、相当の勇気と覚悟が必要ななことのように思う。
そしてこの問題に鋭く切り込んだ小説がこれ。
本当に私たち(いや私自身)は、マイノリティの人達のことをきちんと理解できているだろうか? ましてや価値観、生まれ育った環境、性的嗜好(性的指向?どっちが正しい?)まで…。理解できないというだけで、心の中では毛嫌いし無視していないだろうか?
「おまえらが大好きな多様性って、魔法の言葉じゃねえんだよ」や、「いいよね、誰にも説明する必要がない人生って」。そしてマイノリティの中に普通の人が介在して、話しを余計にややこしくして…。「説明してもわかってもらえない者同士、勇気を出してどうにか繋がり合って生きているのに」…という言葉が重い!
マイノリティのことをきちんと理解できないのなら、その他大勢の〝普通〟のモノサシでしか見ることができないのなら、多様性という言葉を軽々しく使ってはいけないんじゃないか⁉ 表面的な事柄だけを捉えるのではなく、その背景を含めて理解しようと努力することが、多様性を謳う第一歩なのではないか。
現代社会は本当に自分の考えをちゃんと主張できる環境・社会なのだろうか?
〝多様性〟知れば知るほど、考えれば考えるほど…深みにはまっていく‼️
(おまけ)
最近見かけた出来事。
一方は東京・新宿、もう一方は大阪・泉佐野。
「お客さんが店を選択するように、お店もお客さんを選択する権利がある」という意見がある一方、当然反発も。
ただ私は、このような声を挙げる背景には、我慢の限界を超えたよっぽどの出来事があって、悩んだ末の勇気と覚悟の結果だと思う。
SNSなどで軽やかに賛否を述べるまえに、その背景を含めて真実を理解しようとする姿勢を忘れないようにしたい‼️
(ま)