毎年やってくる忘れられない日。1995年1月17日(月)午前5時46分、あれから30年。当時の悲惨で哀しい体験が蘇ります。長かったような、あっという間のような…。
今年の灯籠で象る文字は「よりそう」。神戸から東日本大震災、能登半島地震をはじめ、そのほかのすべての被災者に向けて。
毎年のことですが、灯篭に火を灯すとき〝あの日の朝〟を思い出しつつ、助かったことへの感謝と、神戸だけでなく日本各地で被害にあわれた方々へのお見舞いと復興を心からお祈りしました。
「♫しあわせ運べるように🎶」…何度聞いても涙が出ます。いつまでも歌い継がれていきますように。
神戸には今でもあちらこちらにその痕跡が残っています。
近所や街中にも残る不自然な傾斜やゆがみ。
神戸市役所からすぐの東遊園地にある5:46で止まったままのマリーナ像。みなとのもり公園(神戸港駅後の時計台)にも。
国道2号浜手バイパスの損傷した橋脚、路と道路をつなげる伸縮装置、橋脚の上部と橋台をつなぐ割れた支承(ししょう)。たった1分ほどでここまで破壊する恐ろしさ。
普段の生活の中でも、今だにビクッとする瞬間はあって…、
- ゴミ出しや回収などでガラスビンどうしがあたったり割れたりするガシャンガシャンという音
- 新幹線こだまに乗っていて、のぞみに追い抜かれる際の、一瞬浮きあがるようなグラッとゆれる瞬間
- 夜空の満月(震災当日も音と光が消えた真っ暗闇に満月だけが浮かんでいた)
- 時々聞こえるミシッという家鳴り(気のせいかもしれませんが…)
など、当時の記憶もさることながら、30年たっても体が覚えているようです。しかし私なんか比べものにならないほど、深い傷・トラウマを背負っている方々が大勢います。
大災害が起こる(あるいは追悼の催しの)度に、「風化させないように語り継がなければならない」と言われますが、本当に語り継がなければならないのは、悲惨なことが起こった事実よりも(事実は文字や映像として残る)、そのとき実際に体験したさまざま想いであり教訓…、
- 大きな被害の原因はなんだったのか、被害を最小限に抑えるためには何をすべきなのか
- 救援活動(警察、消防、病院など)を迅速に行うために準備しておくべきことは何なのか(例えば、トリアージの知識を私たちも身につけるべきではないか、AEDの使い方をもっと浸透させるべきではないか、などなど)
- 被災者支援のために準備しておくべきことは何なのか(避難場所、仮設住宅、食料、トイレなど。神戸のNPOが能登半島地震のボランティアで現地入りしたとき、神戸の時と何も変わっていない…と嘆いた言葉が印象的)
- 有効なボランティアの活動とは(来てほしいとの声の反面、素人は来てくれるなといった空気)
などを真面目に議論し、一歩ずつでも前進していくことであると考えます!
そしてもうひとつ。
震災直後はみんな優しかった。ご近所さんだけでなく、警察や自衛隊や地元企業の方々みんなみんな。
ただ一方で、
- 避難所にペットを連れてきている人がいた(気持ちはわからなくはないけど…)
- みんな寒い避難所にいるのにキャンプセット持ち出して平然とお湯を沸かしている家族がいた
- 「トイレはどうしてくれる!」と自治会の役員に怒鳴っている人がいた(役員だって被災者なのに)
- 年寄りのご近所と自分の分の2世帯分の水を受けとって持っていこうとしたら、後ろに並んでいた人が「なんで2世帯分なん?」 理由を説明しても、「そんなん言ったもん勝ちやろ」と
誰もが〝人は一人では生きていけない〟と本能で理解しているはず。だけど人間の本性ってのは極限状態に陥った時に見事に発揮されると実感しました。
だから普段から、優しく助け合うことは、人が持つ真理というか、 摂理というか…、礎というか…。あらためて、こんな〝あたりまえ〟のことを再認識する日にしたいと思いました。
(ま)